連日暑い日が続きすぎて、身体のリカバリーが追い付かない。
それによって何となく「ああもう若いころとは違うんだな」と自覚をする。
そう言うと「まだ30代なんて若いんだから何言ってるのよ!」的な事を言われるけれどもそうじゃないんだよ。
あくまでも自分の身体と向き合った時に若い時と違うと感じているのであって、世間的な物を比べているわけではない。しっかりと身体と向き合うとどう考えても20代の時のようなハチャメチャな無茶はもうできない。
年齢を重ねる事によってもう身体的には余裕がなくなるかもしれないけれども、精神的にはもう少し余裕というか余白ができるかもしれない、なんて考えていた時期があった。
けれども、実際は身体的な余白が無くなっていくと共に精神的な余白も埋まっていってしまっている。
所謂「健全な精神は健全な肉体に宿る」というやつだ。
これは卵が先か鶏が先かと同じような問題なのかもしれないとか密かに思っていたりする。
健全な肉体があるからこそ、健全な精神がそこに宿るのか。
言葉の羅列から見ると間違いなく「健全な肉体」つまり「器」が先にあって、そこに「健全な精神」つまり「中身」が入ってくるという事になる。
つまり端的に言ってしまえば人間の肉体は「器」という事になる。
でもそうだろうか。
どっちが先かという事は関係なく、結局どっちもほぼ同じタイミングなんじゃないかと思う。器も中身も同時に用意されて同時に中に入る。
そして、それは信じられないくらいの柔軟性を見せる。
精神的にしんどい時に肉体がしんどくなる時もある。
肉体的にしんどい時に精神がしんどくなる時もある。
逆に精神的に楽しい時は肉体的にも楽しい。
肉体的に楽しい時は精神的にも楽しい。
つまりきっちりしっかり連動してる。
健全な精神も健全な肉体もどっちも必要で、そこで初めて「全てが健全」という状態になるんじゃないだろうか。
さて、話を戻すと。
身体的に余白が無い今(暑さでマジリカバリーが追い付かないw)、それに連動するかのように精神的な余白が無い。
だから、文章を書く力もなかったのだ(この言い訳がしたかっただけ)
生きていればどちらも十全でフルパワーの状態っていうのは意外と難しい。
でもだからこそ人間らしさって言うのがあるんじゃないかと思う。
「あ~毎日暑いな~」と思い、「あ~暑すぎて心身がだるいな~」と思う。
実に人間っぽいと我ながら思う。
油断しているとすぐに堕落してしまいそうな。
しかしそこで「あ、暑いだから××する」「××したので○○する」と全ての帳尻を合わせるようにテキパキと動けたらなんだかちょっと怖さを感じてしまうかもしれない。
ある程度の余白があって、それがうにゃうにゃと動けるからこそ楽しいんじゃないかな。
とは言いつつ、さすがに身心の余白が無さ過ぎてもう少し!余白を!!アタシにくれ!!!ってなっているので自分なりに余白を作る作業をしたいと思う。
その一つが久しぶりのエッセイの更新でした。
更新をすることでほんの少し余白が広くなったような気がする。
がわ