人生、不十分

大好きな銭湯のこと、日常のこと、考えなど

忙しいとは?(4月エッセイ②)

最近、色々とやることが多くバタバタしている。

脳がオーバーヒートしているのが凄くよくわかる。

発熱しているわけではないのに、頭が熱い事があり「あ~オーバーヒートしてる」と自覚してすぐに寝るようにしている。

 

けれども、それでも、時間は進むし何もかもが待ってくれない。

こんな状況になるとふと前職時代の事を思い出す。

 

入社して3か月程が経った頃の話。

社会人として必要な基礎マナー研修や本格的に業務に携わっていくための基礎の基礎の研修が終わりいよいよOJTをやり始めた。

その頃に私の弱点(?)は露呈した。

 

「うーん。がわくんは仕事は丁寧だし、ある程度の速さがあるんだけど、複数の事が重なると一気に速度が落ちるね」

「そうなんですよね」

「ちょっと厳しい言い方になるけど、今後のタメだと思って言うね。マルチタスクが苦手なんだと思う。でもマルチタスクってこの仕事だと必須になってくるから、少しづつで良いから改善できるように努めましょう。私達も色々と教えるから」

 

つまるところ、マルチタスクが苦手なのだ。

いや、これに関しては当時私を指導していた先輩が「苦手」と言ったのでそれが刷り込み的になっているだけで実は「苦手」ではない。

マルチタスクが苦手なのではなく、優先順位をつけるのが苦手なのだ。

 

どんな仕事においても優先順位はある。

流石に苦手な私でも緊急を要するものは分かるし、優先度が高いものは分かる。

けれども、そうじゃない一般業務における優先順位の付け方が苦手。

というよりも人によって優先順位がなぜか変わってくるので、それに対応していると自分でつけた優先順位が狂うのだ。そうなると、もう大パニック。

 

「あれ、どこまでやったっけ」

「これ、どうするんだっけ」

と色々と爆発して何もかもが大変だったのを思い出す。ああ、苦しい1年目だった。

 

結局のところ、他人に振り回されていただけだったのだ。

先輩Aは「○○を先にやって」と言い、先輩Bは「○○はあと、×が先」という。

そんな環境で優先順位もマルチタスクもクソもないだろうと今になって思う。

 

でもそんな環境に居たからこそ、抱えて7割で一旦放出して、そのあとに10割にするという方法ができるようになったし、嫌でもキャパが増えたので全部が悪いとは言えない。ポジティブシンキングが大切なのだ。

 

では現在は一体どうなっているのか。

「忙しい」という言葉で終わらせたくない。特別忙しいとは思わない。

けれども、抱えているものが多いのは事実だ。

それは「仕事」として抱えているものもあれば「個人」のやりたいこととして抱えている事もある。

 

言い換えれば「忙しい」のではなくて「充実」なのかもしれない。

けれども仮に「充実」という言葉に置き換えた時には再び違和感が出る。

私個人の気持ちとしては「充実」には「休息」も含んでいると思う。

その「休息」が抜けてしまうと「充実」は「忙しい」に変貌するのだと思う。

 

そうすると今の私は残念なことに「休息」の時間があまりないので「充実」というよりはやっぱり「忙しい」になってしまうんだろう。

 

でも「忙しい」はなんだか鼻につく(笑)気がするので、今とても「充実」しているんですという事にしておきたい。

 

がわ

言葉の力(4月エッセイ)

最近口癖のように「言葉を大切にしない人は嫌いだ」と言ってしまう。

(無意識だったけれども何度か指摘された)

 

こんな事を言っているけれども、じゃあ自分自身は大切にできているのか?

そう問われてしまうと自信をもって「大切にしている!」とは言えないかもしれない。

けれども、口から発する時は「無」じゃなくてちゃんとそれなりに考えている。

 

そもそも脳内会議ばっかりをしている人間なので、その発言がどうなって、どのような影響を及ぼすかということは考えてしまう。もっとも、それでいても言葉のチョイスを間違えてしまう事は多々あり、日々精進せねばならないと思っている。

 

どうにも言葉という物を軽々しく取り扱いすぎな気がしなくもない。

私自身は「言霊」をある程度(完全にではない)信じている。

 

言葉が持つ力は人間が想定しているよりも強いと思う。

例えば、一言で人を楽しくさせることができれば悲しくさせることもできる。

それは「口」から発せられる事に限らず「文字」として起こされたものも含む。

 

過去を鑑みてみれば、呪いは言葉からできてるわけだし、祈りもまた言葉だ。

言葉が持つ力という物は元来ずっと強い。それはどんな人も知っているはずだ。

 

それなのに、その強さという物を理解しきらずに使っているのではなかろうか。

しかし、だからと言って規制をすればいいわけではない。規制はつまるところ言葉狩りになる。言葉狩りをしてしまえば、言葉が持つ良い側面の力も制限してしまう。

 

じゃあどうするのか。もうこれは、各々のリテラシーを鍛えるしかない。

簡単に発言ができてしまうけれども、その力がどのくらいの影響があるのか。

 

昨今は「インフルエンサー」なる言葉が生まれ、それを生業としている人が増えた。

それを見ても、言葉の持つ力と影響力があることなんてみんなが身近に感じているはずだ。

 

特にネガティブな言葉の力は簡単に伝染する。それはただ伝染するだけでなく、すぐに発症して、爆発的に広がって鎮まることがない。

 

だからみんな感覚がおかしくなっているんだと思う。

本来重みをもつ言葉が「多くの人が使ってるし」という理由で軽くなっているんだ。

実際はそんなことはない。重みは変わっていないわけで、でも軽くなっていると錯覚してしまうんだ。

 

そうやって言葉がただ無意味に消費されてしまうのは何となく苦しいし嫌だ。

こんな事を言っても、別に私は文字や言葉を生業にしているわけじゃないので本当にただの感覚でしかないのだけれども。

 

精神論かもしれないけど、スポーツ等でしんどい時にこそ「声を出す」というのは全く意味がないようで実はもう一歩の踏ん張りができるということで意味があったりする(これは経験談

 

将来の夢等を口に出したり、文字にすると「後に引けない」気になる。

つまり、「やらなきゃ!」という気持ちと「やってやるぞ!!」という気持ちが出る。

 

とにかく、言葉の力は凄いんだ。だから、言霊はあるんだ。

別にスピリチュアルな話ではなく、普段から自分の言葉って言うのを顧みる事をしてみると何か一つ新しい発見があるかもね、という話。

 

言葉を大切に、ということは一見すると難しいかもしれないけどなんてことはない。

その影響をほんの少し頭に入れて、何かを言う前にほんの一瞬思考をすればいい。

反射的発言なんて良い事が何もないんだから笑

 

がわ

2024年3月日記

今月はなんか思っていたよりも忙しかったし、慌ただしかったし、花粉症が辛いしで大変だった。

 

3月1周目

1周目と言いつつ、金曜・土曜で終わり。

金曜日は用事があって本部に行ったりしたからそれなりの疲労度だった。

朝風呂がな~朝風呂がな~。機械不備で一時的に中止してた間に離れてしまったのかなかなか数字が戻らないんだよな。このまま続けるのか、止めるか、改革するかを考えなければならないフェーズなのかもしれない。

 

3月2週目

何をやったかな~と考えて、ちょっとした取材というか調査を受けた事を思い出した。

少しでも役に立っていればいいんだけどな、どうだろうな。

定休日は急遽予定が変更になりまして、風呂巡りと写真撮りに散歩をした。

チケット取れなくて現地に行ったわけでもないのに、余韻がまだ残っていて東京ドームまで行って写真撮ってきた。カメラ持ちながら散歩するの楽しいな。やっぱり写真って楽しい。

 

3月3週目

今月は毎回火曜日に雨が降るな・・・とちょっと天候を恨んだ。

まあ天気を恨んだとて何も解決しないので、自分のできる事をやれよって事なんだけど。それでも、少しくらいは恨み節を言いたくもなるものなんだよな。こんだけピンポイントで火曜日に天気が悪いとさ。

 

定休日には再び本部での用事。なんか本部に行く回数増えたな?気のせいか?笑

用事済ませて、上野公園を散歩した。桜は開花前だったけれども、少し咲いていたので写真撮った。花を撮るのは難しい。でも楽しい。

この日は天気がとても良かったので、とにかく歩いていて楽しかった。

雨の日も好きだけど、カメラもって出かけるのは天気が良い日に限るかも?

今度は雨の日にカメラ持ち出して出かけてみよう。

散歩後には恒例のオタク会。

今回も今回とて、観た映画や読んだ本の話をつらつらと。

先月会った後にお互い劇を見てきてるからその話をしたりと。お互い熱の入り方が以上でちょっと外から見たら気持ち悪かったかもしれない笑

でも、それが楽しいんだから仕方ないよな~。熱量が高い趣味の話は聞いてても話してもどっちも本当に楽しい。

 

3月4週目

4月に向けて、ちょっとした仕込みをした。

詳しくはもう少ししたら発表する。けれども、とにかく楽しかったな。

定休日も再びちょっとした仕込み。あと写真の撮り方を色々教えてもらった。

カメラの先輩ですな。丁寧に教えてもらって、とても楽しかった。

オタク友人とのオタク会もそうだけど、没頭できるものの話って楽しくって。

特にカメラはまだ始めたばっかりだから先輩氏の話が興味深くて、学びが多くて、ますますのめり込みそう。とにかくお金貯めて自分のカメラ買おうな、私。

 

そのあと服系の先輩に(同じ風呂屋の友達)会いに。

車を出してもらって、古着を見に行ってきた。これがまた楽しいんだ。

先の話と同じで、知見がある人の話は本当に楽しいし、私も学んで聞けるから余計に話が弾む。それに同じ仕事をしているから仕事の話もしたりと。

今後も色々一緒に何かできたら楽しいよねってなってなんかワクワクするよね。

 

3月5週目

年度末が近づくにつれて花粉が激しくなってる。今年は負けを認めて素直に病院に行ったので薬を飲んでる。でもやっぱり目が痒い。かゆ・・・うま・・・。

 

定休日には朝から色々動く予定だったのに起きたらもう15時で呆然とした。

でもよくよく考えてみたら、今月はのんびり寝るっていう事が出来てなかった。

慢性的な睡眠不足のまま動いてた気がするので、これはこれでよかったのかもしれない。

 

とりあえず気を取り直して、本屋に行ってしこたま本を買い込んだ。

その足でふらふら散歩して(毎週散歩してるな)、雨の中都電に乗り込んだ。

何故かって?今日は昼に二郎系ラーメン食べるつもりだったのにそれが頓挫したので夜にリベンジしに行ったのだ。大満足。めちゃくちゃお腹いっぱい。

 

そのあと近くの銭湯で風呂入って、また都電に乗って移動してもう1軒風呂入って。

帰ってきて溜め込んでたフリーレンを一気見した。フリーレンめちゃくちゃ良かったなぁ。

 

そんな感じで3月もあっという間に終わってしまった。

年明けてからの駆け抜けていく感が半端ない。もう3か月も終わったのか。

新年度だけど、変わらないところは変わらず、変わる所は変えて、少しずつ前に進んでいきたい所存。

 

がわ

思考と妄想の狭間(3月エッセイ②)

「ただ頭の中であれこれ物事を散らかすのは"思考"じゃなくて単なる"妄想"」

「その行為はもはや生産性はない」

「だから"ロジカル"に考える必要があるんだ」

 

全て前職時代の上司からの言葉。

言わんとすることは分かるし、"間違い"ではないんだろうと思う。

けれども、断定してしまっていてそれはさすがに暴論じゃないかって思う。

 

私は子供の頃から上司の言う"妄想"が得意な人間である。

でも、自分自身でそれを妄想とは思わない。よくある言葉であるけれども私は"脳内会議"と呼んでいる。

日常的に「ぼーっと」していても常に頭の中で何かを考えている。

それは悪い事から良い事、それこそ全く生産性の無い妄想まで幅が広い。

とにかく常に脳みそがフル回転しているようなイメージ。

 

例えば・・・人と「ラーメン」に関する会話をしていたとする。

きちんと「ラーメン」に関する会話をしながらも、頭の中では「チャーハン」の事を考えていたりする。

また、Aさんと私が会話をしている時、BさんとCさんが近くで会話をしているとBさんCさんの会話も聞こえていて、その会話に対して脳内でツッコミしたりする。

(もちろん、Aさんとの会話は普通に成立しています)

 

こういう事も上司から言わせれば妄想らしい。

脳の容量の無駄使い、さっさと止めた方がいいと。

ロジカルにアウトプットできないことはマイナスで役に立たないらしい。

 

いやうるせー!!!カタカナ使わねえで日本語使えや!!クソが!!!」

 

なぜ他人に自分の脳内の事を妄想なんて断定されないといけないのか。

そもそもここまで頭の中で常に何かしらを考えているのは気にしいだからだ。

一番良く発生するのは普通に会話をしている途中にちょっとズレた事を言ってしまったり、言い回しが良くなかったときにすぐに「ああ今の良くなかったな」って脳内で反省するんだ。それくらい、気を遣うとなるとおのずと脳みそは同時にAとBを思考する。

 

AとBから派生してCも考えたりする。

そうなると、もう思考は止まらない。

 

確かに、起こった事象への対応を考えているわけでもないし、それがとても役に立つのかと聞かれると誰かの役には立たないかもしれない。だから"妄想"と言われても仕方ないのかもしれない。

 

けれども、じゃあ全く役に立たないこと全てが妄想なのかって話なわけで。

それはあまりにも暴論過ぎません?

 

上司が某バーガーチェーン店のコスパについて考えてたんだよねって話をしたとき「いやそれてめーの定義上だと妄想やんけ」って何度思ったことか。

 

なぜ私の"脳内会議"だけが妄想と言われなければならないのか。

いや間違いなく"思考"だ。脳みそがフル回転しているんだから。

 

他人にとやかく言われる筋合いはないのに、そういう言葉ですら気にしてしまい結果的にまた脳内会議をしてしまうのだ。

 

他人の言葉に振り回されずに、ストレートに「思考しています」と言えるようになりたい。

 

がわ

アイデンティティ(3月エッセイ①)

「今日はめちゃくちゃいい天気ですね~」

「どちらから来られたんですか?」

 

会話のきっかけの一つとしてよく話題になると思う。

これ以外にも様々なきっかけがあると思うけど、その中で一つ「む・・・」と戸惑う物がある。

 

「どこ出身なんですか?」

 

なんてことない質問だし、きっかけとしてはパーフェクトな話題だと思う。

同郷であれば話が弾むし、知らない土地であれば教えてもらえるし、逆に知っていれば共感できるし。とにかく出身地に関する話題は全方位で対応できる万能な言葉な気がする。

 

けれども、私(に限らず他にもいると思うけど)は「む・・・」となる。

というのも私は明確な出身地という物があるようでないような気がしている。

アイデンティティの欠如だ。

 

母方の実家である福島の病院で産まれた(らしい)。

その後は東京に3歳まで居て、父の転勤で大阪へ。

大阪には約8年いて、再び転勤で埼玉へ。

それ以降はずっと埼玉にいるけれども、私自身は学生時代はほぼ神奈川に居たし今は東京にいる。

 

つまり明確に「ここの土地こそ私の出身地だ!」というものがない。

そもそも出身地も明確な定義がないし、曖昧なものだと思うけれどもそのなんとなしに使っている出身地は結構「アイデンティティ」を確立するうえで重要だと思う。

ある種の心のよりどころという物だろうか。

 

学生時代、熊本出身の女の子は「熊本の女を舐めないでください!」とお酒を沢山飲んでいた。東北出身の男の子はちょっと照れながらも嬉しそうに「訛りがなかなか抜けなくて」と言った。東京出身の人は揃って満面の笑顔で「東京の○○出身です!」という。大阪・京都・奈良という関西圏出身の人も東京の人に負けず劣らずで「○○出身です」という。出身地はその人の根幹でもあるからこそ、みんなが知らないうちに大事にしているんじゃないだろうかと思う。

 

では転勤族の私はどうなのか。

一番住んでいた時間が長いので「埼玉出身です」ということが多かったけれども、正直しっくり来ていなかった。だからと言って小学生時代を過ごした大阪出身というのもしっくりこない。幼少期に少しだけ住んでいた東京もしっくりこない。記憶が残っている土地はどこもかしこもしっくりこない。わがままな人間だ。

 

そもそも、そんな出身地なんかに拘る必要はないはず。

けれども、知らず知らずのうちにやっぱり血筋というかそういう物を大切にするようになっているんだと思う。だからこそ、「○○家~」なんて言い方もあるわけだし。

 

全く記憶がないけれども(産まれた土地である)、福島出身ですと最近言い始めた。

これが、びっくりするくらいしっくりくる。

子供の頃、福島の祖父母の家に行くのが楽しかった。もちろん父方の祖父母の家も楽しかったけれども自然あふれる福島の方がきっと性に合ってたんだと思う。

でも子供の頃は「福島出身」はしっくりこなかった。だからアイデンティティが迷子になってしまい、なんだか中途半端な感じだった。

 

それが30を過ぎて、改めて「福島出身」というとしっくりくるのだからわからないものだ。きっと自分の根幹というか芯というか、そういう気性が年を重ねるごとにしっかりと顕現して合うようになったんだと思う。

 

そこまで深く考える事もないかもしれないけれども、転勤族の人で出身地に悩む人が居たら産まれた土地から過去に住んだ土地を一つずつ当てはめてみて欲しい。きっとその中にしっくりくるものがあると思うし、また大人になればきっと「ああ、ここなんだな」っていうものが見つかると思う。

 

がわ

2024年2月日記

2月1周目

 

昨年末から続く機械の交換はとりあえず終わったけど、ちょっと様子見。

 

初日から定休日。

昨年予告映像を見てからずっと気になっていた、「在りのままで進め」&「在りのままで咲け」という映画を見てきた。女性が主役であり、結婚や出産等が一つのテーマになっているけれども、男性・女性関係なく多くの人に見て欲しいと思った作品だった。

 

作中では女優業と結婚・子育ての両立等がありありと描かれていていわば「二兎を追う物は一兎も得ず」という状況に疑問を抱かせた。どちらかを諦めないといけないのだろうか、諦める必要なんて実は無いのに諦めざるを得ない状況に周りがしてしまっているのではないか。自身もそれを信じてしまっているのではないか。どう進むかは自分で決める。それこそが「在りのままで進め」なんだとしみじみ。

 

また、スポンサーが付いた商業映画監督のなんとも言えない、抗えない無念も作中で描かれていてぐっさりと刺さってしばらく呆けてしまった。

 

2月2週目

5日の月曜から無事に通常営業に戻す事が出来た。

年末ヵら長期間、短縮営業で色々な人に心配をかけたし業者の方にもたくさん対応していただいて本当に周りの人のおかげで生きているなって実感した。通常営業に戻すことができて本当に良かった。お客さんも喜んでいたし、夜の時間帯の離れていたお客さんも戻ってきてくれた。

 

ニシベケミカルさんが急にいくつものサンダルを生産終了という話が流れてきて慌てていくつか購入した。ダンヒル、カラーが沢山あって履きやすいから好きなんだけどカラーが減ってしまうのはちょっぴり残念だし、それ以外にもニシベさんのサンダルは履きやすいから好きなんだよな。残念過ぎる。

 

機械は全く問題なく動いているので、2週目にしてやっと一安心できた。

これで少しばかりは日常に戻れると思う。精神的な疲労が半端じゃなかった。

 

2月3週目

組合関係の新年会に参加した。毎年貴重な機会であり、他の区の人達と交流できる。

色々な話をしてきて、勉強になった。と同時にお店に戻らないといけないから「ノンアルコールビール」を飲んだんだけど、空酔いしてしまったみたいで帰り道がちょっぴり大変だった。麦とホップとの相性が悪すぎる。

 

急遽ご連絡をいただき定休日にとある方々との飲み会に参加してきた。

これがとても楽しく、ただ楽しいだけじゃなくまた何かをやりましょうとコソコソ作戦会議をしたりと、とても有意義な時間であった。またぜひともやりたいところ。

楽しく飲んで、話して、食べて、大満足な定休日だった。

 

2月4週目

(日曜からカウントしてます)

約1年前からこれのために頑張ってきたと言っても過言ではないイベント。

「オードリーのANNin東京ドーム」。残念ながら現地チケットは全て外れたため、ライブビューイングでの参加。とにかく、本当に最高だった。詳しくは前の記事に書いたのでお暇な時にでも。

 

miku778.hatenablog.com

 

定休日にはまず東京ドームのギャラリーへ向かい、オードリーのANN15周年展を見てきた。これもめちゃくちゃに最高だった。最初の頃の放送回は忘れているかなって思っていたけど、一つのフレーズを聞くと思い出して、またゲラゲラと笑えて最高だった。

なんというか、10代後半から今まで本当にオードリーのおかげでここまで生きて来れてるよなあ~と感謝をしてしまった。これからも長く続いてほしい。

 

そして、恒例の10年来のオタク友人氏とのオタク会。

観劇にハマり、中の人にもどっぷりはまっている友人氏。

そんな友人氏の悩みをあれこれ聞いたり、私が最近はまっている事等つらつらと話しているうちにすぐに時間が来てしまう。毎回「時間足りね~!」って二人でゲラゲラ笑いながら解散するのがとても良い。また来月の会の予定を決めて、「ではな~」と解散。楽しい。今年は頑張って時間作って旅行に行きたいねと話した。(ラクレットガレット最高に美味しかった)

 

2月5週目

ここにきて気が付いたけど、今年はうるう年なんだね。29日まであるじゃんと。

ちょっとだけ得した気分になれた気がする。

 

色々な理由があるけれども、ブログで書くこと以外に喋る場所が欲しいなって思った。

たぶんこれはオードリーANNin東京ドームの影響。色々と沢山あるけど、とにかく喋りの場を作っていいかもと真剣に考えつつある。本当にやるかは未定。できれば銭湯とは関係ない事を喋りたい。

 

花粉が急激に飛び始めて、毎日毎日目が痒くてムスカ

薬は極力飲みたくないので目薬で耐える。痒い。かゆ・・・うま・・・。

 

今月最後の定休日には「在りのままで進め」に出られていた、鄭玲美さん、岩永光祐さんが出演されている舞台「AM 2:54」を観てきた。こういう舞台を観るのは人生初なのでなんだかとても緊張した。

 

幕が上がってからは終わりまで終始のめり込んでしまった。

ある劇団の始まりから終わり、その劇団内で起こってしまったパワハラについて掘り下げていく物語は、当事者でもないし、演劇をやっているわけでもないのに、時に苦しく、辛く、でもどこか少しだけ「分かるかも」と思ってしまう作りだった。

(詳しい感想はまた改めて別記事で書きたい)

とにかく、観ることができてよかったと思った作品だった。

出来ることなら何度か見たいと思ったくらいだ。

 

今月は色々と文芸的なものに触れた一か月だった。

機械も無事に直り、仕事の方も通常に戻ったのでまたコツコツと積み上げていきたいと思う。

 

がわ

自己分析と未解決(2月エッセイ②)

10年来の友人氏と飲んで、自分の好きなものや好きな人について話が大いに盛り上がって、こういう理由で好きなんだよ!と発言した後の友人氏の一言だった。

 

「私達、自己分析しすぎじゃない?これじゃあ自分大好き人間みたいじゃん」

 

外側から見ると確かに自分の事をずーっと考えている=自分好きって捉えられるかもしれない。かもしれないというよりもそうなんだろうな。

 

実際のところ自分の事が好きだから分析しているわけじゃない。

これは断言できる。

自分の事が嫌いなうえに、32歳にもなって未だに自分の事がよくわからないから分析をしているわけで。

 

どういうことかというと、まず自己嫌悪から分析することが多い。

特に多いのは飲み会や友人とご飯に行った後の帰り道。

 

「あ~あの時もっと○○みたいな言い方できたな・・・」

「あの話題、もう少し広げた方がよかったな・・・」

「あれはよくなかった。失礼すぎた」

「ソースが無い事をあたかも事実みたいな言い回ししちゃったかも」

 

こんな事が頭の中に渦巻いている。

つまり、帰り道は頭の中で「大反省会」が行われている。

反省会は普通に会話している途中ですら頭の中で即時の反省会が始まったりする。

「いや、そこは××じゃなくて△△の話題だろ」

みたいな反省はざらでとにかく毎日が反省の繰り返し。

 

そうしてそんな反省をしていると今度は疑問が出てくる。

「一体なんでこんなに反省しているんだろう」

この疑問について考え始めると必然的に自分という人間の事を分析する必要がある。

 

例えば・・・自分自身の

好きなこと

嫌いなこと

気になること

やりたいこと

やりたくないこと

好きな人

嫌いな人

 

等々を考える。さらにそこからまた一つ掘り下げる。

つまりまたしても「どうして?」という疑問になる。

 

これはもはや「答え」が出るものではないので、考えているとは言わないかもしれない。実際、前職の時の上司は「答えが出ない事を堂々巡りで捏ね繰り回すのは考えているというのではなく時間の無駄って言うんだ」って言っていた。余計なお世話だクソ狸め。

 

何をもって「考えている」かどうかなんてそんなもんはどうでもいい。

むしろ答えを提示してくれるならぜひとも提示してほしい。

それくらい自分自身の事になると解が出ない。

 

そう、まるで未解決の事件に取り組んでいる探偵のような気分になる。

でも、これが止められないし止めるつもりもない。

 

先ほど「答え」が出るわけじゃないと言ったけれども正確にはちょっと異なる。

その時における「自分」に対しての答えは出せる。

けれども、時間が経ったり、年齢を重ねたりすると思考が変わるのでその「答え」に違和感が出てくる。だから、止められるものでもないから止められないという事だ。

 

私が敬愛している「たりないふたり」もステージが変わる毎に「たりない」ものが変わっているから一生たりないんだ、のような事を漫才の中で言っていた。

 

まさにその通りだと思っている。

特に大きなステージの変化(進学、就職、結婚等)が無くても、小さな変化というものは常に起こっている。だから自己分析は延々と続くし、永遠なものなんだと思う。

 

とはいえ、最終的には未解決・迷宮入りが確定している事を延々と考え続けるのもさすがに変な気がしなくもないので、もう少しくらいは自己分析するのを止めたい笑

 

脳内会議は楽しいけれども、それなりにカロリーを消費するのですぐにお腹が空く。

だから燃費が悪くなってしまう。結果食費が嵩む。さらに周りから見れば自分大好き人間に見えてしまう。

 

次に友人氏と会う時はもう少し、お互いに自己分析以外の話で盛り上がれるようになれるといい。

 

がわ