10年来の友人氏と飲んで、自分の好きなものや好きな人について話が大いに盛り上がって、こういう理由で好きなんだよ!と発言した後の友人氏の一言だった。
「私達、自己分析しすぎじゃない?これじゃあ自分大好き人間みたいじゃん」
外側から見ると確かに自分の事をずーっと考えている=自分好きって捉えられるかもしれない。かもしれないというよりもそうなんだろうな。
実際のところ自分の事が好きだから分析しているわけじゃない。
これは断言できる。
自分の事が嫌いなうえに、32歳にもなって未だに自分の事がよくわからないから分析をしているわけで。
どういうことかというと、まず自己嫌悪から分析することが多い。
特に多いのは飲み会や友人とご飯に行った後の帰り道。
「あ~あの時もっと○○みたいな言い方できたな・・・」
「あの話題、もう少し広げた方がよかったな・・・」
「あれはよくなかった。失礼すぎた」
「ソースが無い事をあたかも事実みたいな言い回ししちゃったかも」
こんな事が頭の中に渦巻いている。
つまり、帰り道は頭の中で「大反省会」が行われている。
反省会は普通に会話している途中ですら頭の中で即時の反省会が始まったりする。
「いや、そこは××じゃなくて△△の話題だろ」
みたいな反省はざらでとにかく毎日が反省の繰り返し。
そうしてそんな反省をしていると今度は疑問が出てくる。
「一体なんでこんなに反省しているんだろう」
この疑問について考え始めると必然的に自分という人間の事を分析する必要がある。
例えば・・・自分自身の
好きなこと
嫌いなこと
気になること
やりたいこと
やりたくないこと
好きな人
嫌いな人
等々を考える。さらにそこからまた一つ掘り下げる。
つまりまたしても「どうして?」という疑問になる。
これはもはや「答え」が出るものではないので、考えているとは言わないかもしれない。実際、前職の時の上司は「答えが出ない事を堂々巡りで捏ね繰り回すのは考えているというのではなく時間の無駄って言うんだ」って言っていた。余計なお世話だクソ狸め。
何をもって「考えている」かどうかなんてそんなもんはどうでもいい。
むしろ答えを提示してくれるならぜひとも提示してほしい。
それくらい自分自身の事になると解が出ない。
そう、まるで未解決の事件に取り組んでいる探偵のような気分になる。
でも、これが止められないし止めるつもりもない。
先ほど「答え」が出るわけじゃないと言ったけれども正確にはちょっと異なる。
その時における「自分」に対しての答えは出せる。
けれども、時間が経ったり、年齢を重ねたりすると思考が変わるのでその「答え」に違和感が出てくる。だから、止められるものでもないから止められないという事だ。
私が敬愛している「たりないふたり」もステージが変わる毎に「たりない」ものが変わっているから一生たりないんだ、のような事を漫才の中で言っていた。
まさにその通りだと思っている。
特に大きなステージの変化(進学、就職、結婚等)が無くても、小さな変化というものは常に起こっている。だから自己分析は延々と続くし、永遠なものなんだと思う。
とはいえ、最終的には未解決・迷宮入りが確定している事を延々と考え続けるのもさすがに変な気がしなくもないので、もう少しくらいは自己分析するのを止めたい笑
脳内会議は楽しいけれども、それなりにカロリーを消費するのですぐにお腹が空く。
だから燃費が悪くなってしまう。結果食費が嵩む。さらに周りから見れば自分大好き人間に見えてしまう。
次に友人氏と会う時はもう少し、お互いに自己分析以外の話で盛り上がれるようになれるといい。
がわ