先日、文学フリマ東京に参加してきた。
出展者側で。前回に引き続き、2回目の出展者側。
色々と忙しかった(言い訳)ので、新刊は作らずに既刊を持っていった。
前回、今回ともに銭湯好きの友人達と作った冊子をもって出展した。
この冊子についてはまた別の機会に詳しく書きたいところ。
文学フリマに参加するたびに「創作意欲」がとても刺激される。
元々、何かを考えるのが好きなタイプではあった。
けれども、残念なことに絵心はなく、歌も下手、工作も下手。
そんなこと気にしなければいい、と今になって思うけれども小学生の時に先生から言われた言葉はそれ以降も呪いのように身体を雁字搦めにしてしまう。その呪いを解く方法はいまだに見つからない。
図工の先生に言われた言葉は辛辣だった。
書いた絵に対して「まるで事故現場ね!」と。
さらに「あんまり絵が上手じゃないわね」と。
ストレートな言い分。今の時代だったらきっと許されないと思う。
ゆとり世代と言われる私たちの世代でも厳しい先生はまだ居て、その先生の言葉はその後何十年という呪いをかけるだけの力があった。
音楽の先生はオブラートに包んでくれた。
「あなたは、個性的な声と歌い方ね!」
要約すれば音痴ってこと。でも壊滅的ではなくって、リズム感だけが無駄に良かったので合唱の時とか扱いに困っただろうなって思う。
委員長、先生、ごめんね・・・。
そんなことがあり、芸術系は基本的に"捨て"だった。
どうせ、才能ないしって。
そんな状態でもやめられなかったのは頭の中の妄想。
ストーリーをかってに自分で考えて演じる。脳内劇団。
よくある設定だと学校にテロリストが襲撃して来たら自分はどう立ち回るかっていうやつ。(これは大半の中学生男子が考えたことがあると思う)
その他にも「もしも○○だったら」っていう設定をいつも帰り道に頭の中で考えてた。
さらに少し前に戻れば、幼稚園~小学生低学年の頃「○○ごっこ」がとても流行っていた。その時、自分が何の役をやるかには興味があんまりなくて、どんな設定でどういう動き方をしてほしいか、みたいなことを考えてた。
そこまで深くはないけど、ヒーロー役をやるんだったら決め台詞は絶対これ!とか。
悪役なのであればこのセリフを言って欲しい!みたいな拘りはあった。
つまるところ「設定」を考えるのが好きだった。妄想でしかないけれども。
これは頭の中で考えていることなので、誰かに何かを言われることがなかった。
おかげですくすくと設定・・・もとい妄想をする脳みそになった。
そして、創作の前にブログを書き始めて自分自身が言葉や文字が好きということに気が付く。ありがたいことに文章を褒めてもらえるようになり、恥ずかしながらも短編小説を書くようになった。
いざ書き出してみるとこれがかなり難しい。
風呂敷を広げることは簡単であっても畳むことが難しい。
広げるだけ広げて畳めなくなって、放置している小説が実は沢山ある。
書き終えていなくても設定だけは頭に浮かぶので、それはメモしている。
そのような状態で文学フリマに参加すれば、意欲が刺激されて仕方ない。
あの場は文字通り「文学」が好きな人達の集まり。そこにはかつての先生たちのように「呪い」をかけてくるような人はいない。みんながみんな思い思いに文学を愛している。
「個人で、エッセイや小説で出展したい」
今回の出展後に改めて思った。
エッセイはともかく、小説は世に出していない。
まだ少しばかり恥ずかしさがあるから。特別面白いものが書けたとも思わないし、すごい設定の物でもない。言ってしまえばきっとありきたりな内容だと思う。
でもそこに、自分が込められる物は込めているし、もしかしたら伝えたいことが伝わる人もいるんじゃないかなって思ったりもするようになった。
自分が書いたものを誰かに読んでもらいたい。
それはネット上ではなく、できれば直接手に取ってほしいっていう欲が出てきた。
まずはネットで公開すればいいのに、って言われそうだけどそうじゃない。
例え誰も手に取らなくても、形にしてみたいという意欲がわいてきた。
冊子にまとめるにあたってはきっと過去に先生たちにかけられた呪いを解かないといけないところも出てくると思う。表紙とかに絵を描きたいって思うし。
間に合うかわからないし、できるかもわからないけれども、次回の文学フリマでは友達とのブース以外にも自分個人のブースも出したいです。
創作・・・芸術系呪いを解くのは間違いなく創作意欲だと思った。
楽しみにしてくれる人がいるかわからないけれども、いくつか溜めていた設定から引っ張り出して小説と、日々のエッセイをまとめたいと思う。
・・・ペンネーム、考えないとなあ。
がわ